「鬼峠を越えてニニウまで」 山本敬介  イーストサイド013号 2006.5.1発行


 午前7時、ニニウへ向かう鬼峠の入口でスノーシューを履く。足元では愛犬くまが早く行こうと急かしている。雪で閉ざされた鬼峠に入るのはこの冬3回目だ。3月になるというのに占冠(シムカップ)の朝は冷える。今日も日中は春の陽気になるという予報だが、朝はマイナス15℃を下回っているようで、市街地にある千歳橋からは、朝焼けに光る鵡川の水面から寒さで湯気が立ちのぼる占冠ならではの景色が見られた。

 ニニウとは私が住んでいる占冠村で最も南に位置する集落だ。我が村は鵡川に沿って集落が点在しており、ニニウはその一番下流にある。最上流のトマムから中央までは源流部と言うこともあり比較的水量も少なく流れも緩やかだが、中央付近で支流が集まり、ここからはまではまるで違う川のように激しい流れとなり渓谷が深く刻まれている。この渓谷は赤や青灰色の岩がゴロゴロしていることから「赤岩青巌峡(あかいわせいがんきょう)」と言われており、紅葉の時期にはカメラマンや見物客が集まってくる村唯一の名勝である。ニニウはこの赤岩青巌峡をすぎたあたりのポッカリと渓谷が開けた場所にある。ニニウを集落といったが、現在はわずかにひと組の夫婦が暮らすだけで、廃屋があちらこちらに見られる。その廃屋も最近では雪の重みに堪えきれなくなり数棟を残すのみとなっている。ニニウには明治の末期に石炭の採掘が期待できると踏んで入植がはじまり、林業で栄えた昭和20〜30年代には40戸近い集落となった。しかし、占冠村の中央でさえ陸の孤島といわれた時代に、さらにその中央から渡し船で鵡川を渡り、この鬼峠を3時間以上かけて超えなければならないような所に集落があったとは、今の感覚からいうと到底信じられない。鬼峠はそんなニニウが最も活気ある時代に、ニニウで生活する人々にとって唯一の外部と通じる道だった。新得から嫁いだ花嫁が、最寄りの国鉄金山駅からニニウまで5足のわらじを履き潰して1泊2日かけてやっとたどりついたという話、また、中央で芝居や映画があるからと、農作業が終わる夕方から15、6人、小走りで鬼峠を越えて中央まで2時間半、芝居が終わって月明かりの中ランプも持たずに真夜中の峠をまた2時間半越えて帰ってくる、そんな逸話がいくつも残っているのだ。昭和35年に現在のような赤岩青巌峡を通る川沿いの道路が開通し、昭和41年には中央から遅れること16年経ってようやく電気が通じた。しかしこれらのインフラ整備と逆行するかのように、山の仕事は徐々になくなりニニウで暮らす人も少なくなった。昭和50年にはとうとう新入(ニニウ)小中学校が64年の歴史に終止符を打った。

 


 スキーズボンに毛糸の帽子、フリースの上着を着込んで足元には現代版かんじきスノーシュー。リュックにはおにぎり2個と唐揚げのお弁当、行動食、そしてデジタルカメラとスケッチの道具。携帯電話も持ってはいるが峠の頂上から向こう側では通じないはずだ。良く知る地元の山とはいえ、鬼峠を越えるのははじめて。雪中の単独行なので万が一迷いでもしたら命取りだ。前日の夜は緊張して地図に旧鬼峠のルートを赤鉛筆で書き込んできた。というのも、5年ほど前に「ふるさと林道鬼峠線」という新しい林道が整備され、頂上まではほぼ旧道をなぞらえた形でルートをとっているが、頂上から先は古い鬼峠とは別のルートで大きく迂回して元の道々につながっており、ニニウ側へ抜ける古い鬼峠は現在の地図からは消えているのだ。実はつい先日、意気込んで鬼峠越えを目指したものの、この新しい林道を疑うことなく歩いてしまったのだ。もうそろそろニニウに着く頃だろうと思っていたら、着いたところは何だか見覚えのある景色。まさかとおもって近づいてみると、やっぱり「レクの森」というニニウとは全然違う場所だった。峠の頂上から見てニニウは北、レクの森は南と方向が全く違うのだから、歩いていて太陽の位置でわかりそうなものだが、人間信じ込んでいるとそれすら気付かない。4時間歩いたのに、これには全く閉口であった。次の日に早速役場へ出向き、旧道と新道が一緒に記載されている図面を探してもらった。さらに等高線が細かく出ている林業用の図面をもらって、それに旧道を書き込んだ。この冬1度目は峠の頂上まで試しに登ってみた。そして2度目が先日のとんだ間違い。今回こそはニニウで暮らした人たちが辿った鬼峠をなんとしても越えて3度目の正直としたい。


 鬼峠の入口はJR石勝線「鬼峠トンネル」のすぐ脇にある。スノーモービルの跡がわずかに残っているが、真新しい雪の上にスノーシューの足跡を残して歩くのは気持ちいい。キツネ、ユキウサギ、エゾリス、色んな動物の足跡を、犬はいちいち嗅いで辺りを見回している。登り始めてしばらくすると徐々に体が熱くなり汗がふきだしてくる。とはいえ外気はマイナス10℃、上着を脱ぐと冷えてしまう。前のファスナーを開けたり、帽子や手袋を取ったりして体温を調節しながら新しい鬼峠林道をどんどん登っていく。しかし、この林道を使っている人が一体どのくらいいるのだろうか。林道が荒れていては林業はできないのだと、近所の林業家の社長から聞いたことはある。たしかにそうかもしれないが、舗装は必要ないだろうし、やたらとでてくる看板にはあきれるばかりだ。0.5km毎の起点からの距離、勾配の%、カーブ、交互通行帯の案内など、色んな動物がかわるがわる案内してくれ、まるでゴーカートコースだ。しかもこの鬼峠林道にいたっては前述の通り、本来のニニウ側のルートが難工事になるという理由で、左に大きく迂回して結局元の道々へ戻っているのだ。これは明らかに工事のための林道だろう。看板には「林業・山村の振興は林道から」と書かれているが、なるほど山村の振興は林道工事からだな、とブラックユーモアに解釈して笑ってしまった。そんなことを考えながらしばらく登っていくと眺望が開ける場所があり、村の中央市街越しにはるかに続く日高山脈の切り立った山々がその勇壮な姿を見せている。昔峠越えをした人々もここで一息ついたことだろう。息が上がりながらも登り始めて1時間30分で鬼峠の山頂に到着。ここまでは動物の看板を目印に(役に立ってるね)登れば良かったが、ここから先が勝負である。現在は全く使われていない道なので、すでに木もはえてきているという話で、頼りは赤鉛筆の旧道地図だけだ。休憩を取りながら辺りを見回して、送電線と新道の角度から入口はこの方向だろうかとアタリをつける。雪に埋もれているが道と言えば道に見えなくはない木々の間に入ってみる。半信半疑で歩を進めるうち、どうやら道であろうと確信してきた。「これが鬼峠か」と感慨深くなり、当時往来した人々の姿を思い描きながら進む。ここをどれだけの人々がどんな気持ちで往来した事だろう。すべての生活物資も馬に引かれてここを通った事になる。長い峠を下って家に着いた時にはさぞかしうれしかっただろうし、あまりの厳しい生活にニニウから逃げ出していった人もいただろう。しばらく行くうちに道跡からは外れてしまったが、進行方向でJRの音が響いていている。方向は間違っていないようなのでどうにかなるだろうと、沢づたいに下りることにした。

 


 急な沢を下りきった所で開けた場所に出た。木材切り出しの土場の跡だろうか。遠くに今越えてきた鬼峠の峰が見える。沢に沿ってあきらかに幅の広い林道を発見。これは地図にある鬼峠のニニウ側の道に間違いない。しばらく進んでいくとニニウ四の橋があり、ペンケニニウ川に沿った林道につきあたった。どうやら鬼峠越えは無事に達成された。ここからニニウの中心部まで、まだ3キロ余りある。1kmほど行ったところで、JRの高い高い高架橋をくぐる。鬼峠トンネルは全長3765m、文字通り鬼峠の真下を貫通してここに出るのだ。今日、私が3時間半かかってたどりついた峠越えを、今列車は5分ほどで易々と通過している。まったくもって人間の技術は素晴らしいが、その便利さを追求してきたしっぺ返しをこれからの時代は受けていく事になる。ちなみに昭和56年に開通したこの鬼峠トンネルは石勝線工事の中でも特に難工事を極め、作業員達は「畜生、鬼め」とうめいたという話だ。


 ニニウの中心部には昼前に着いた。唯一の住人後藤さんを訪ね、コーヒーをごちそうになる。周辺では数年前から夕張と清水をつなぐ高速道路の工事が始まっており、時折発破の音が響いている。風景は大きく変わり始めているが、ここで暮らしている人がいて、人間の営みが続けられているのは何とも安らいだ気持ちになる。とんでもない不便な時代にわざわざ鬼峠を越えてニニウを拓き、暮らした人々がいた。そういった人々の想いを後藤さんが引き受けているように思う。これから先、ニニウにたくさんの人が住むという事はまずないだろう。しかしまったく人がいなくなる事もないのではないか。それは、ニニウが人を魅きつける不思議な場所だからだ。ある時「北海道で一番好きな風景は?」と突然聞かれた私は「ニニウの道」と答えた。ほかにもっと雄大な景色にいくらでも出会っているのに、突然の問いに私が答えたのは何と言うことはないニニウの道であった。それは吊り橋を渡ってキャンプ場に行くまでの、ほんの短い曲がった土の道で、夏の夕暮れには蛍が少し舞う。この道は、きっと私の中にある原風景なのだろう。ニニウとはそんな場所だ。


 廃屋を数枚スケッチして、ニニウの空気をいっぱいに吸い込んだ後、帰路についた。今度は鵡川沿いの道を上流に向かって歩く。この日、赤岩までの区間は雪崩の恐れのため車輌通行止めとなっていて車は通らないので好都合だ。しかし、道は平坦だが鬼峠の倍近い距離があり、夕暮れ時の雪道を出発点の鬼峠入口まで2時間の道のりだ。朝から歩いているのでそろそろ疲れてきてはいたが、こうして鬼峠を自分の足で越えたことで、ニニウに暮らした昔の人たちと、時空を越えて少し心が通じたような気がして、なんだか足取りは軽かった。

おわり